水面に映る詩のように
私の父は生きる傍らに、いつも本がある人でした。
廊下の壁一面にずらりと並ぶ本と、書斎の片隅で書類の隙間から見える原稿用紙。
叶うことなら物書きになりたかったのだろうと思います。きっとそんな生き方が似合う人でした。口数はとても少ないけれど、いつも心のなかには言葉や想いが溢れていて。
私はというと、そんな父の血を受け継いだのか、同じように人と話すのは苦手だけど、いつも心のなかに言葉や想いが溢れていて・・・
そんな自分を好きになれないまま大人になりました。
まわりの早いペースの会話には入ることができなかったり、なのに心のなかにはいつも零れ落ちそうなほどの言葉があって。まわりとコミュニケーションの方法が異なる自分を生きづらいと感じていたのです。
時が流れ、今は言葉を文字にして表現しやすい時代になりました。 SNSもあれば、少し勇気を出せば本という形にすることもできる。 そして、だからこそ容易く言葉で傷つきもする。
2024年春、私は1冊の本を出版しました。 その1年ほど前から「本のようなカフェ」という形でお店を開き、私はメニュー表のなかで自分の言葉を綴っていました。そこにある言葉を好きだと言ってくれる人たちがいる一方で、当時とても信頼を寄せていた人が私の言葉を「人の努力を踏みにじるようで嫌い。冷淡で高慢で思想のおしつけのよう。」と評していることを知って、私は自分の言葉を表に現すことがとても怖くなってしまったのです。
表現することや生み出すことが怖いまま、人から隠れるようにしてお店を開き続けた1年間。それでもずっと、私のそばで言葉を紡ぎ続けてくれた女の子がいました。 すべての言葉をそのまま包み込んでくれるような彼女の言葉は、まるで「しづかさんも、しづかさんのままでいてください。」というエールのようで、その彼女が春を迎えて社会へ飛び立とうとする時。彼女へ贈りたいと思う言葉が、短い手紙として私から溢れ出たのです。 心からの言葉を誰かに贈るということに臆病になってしまっていた私にとって、それはとても久しぶりで、そしてとても大きな勇気が生まれた瞬間でした。「いつかしづかさんの本が読みたいです。」「卒業する前に何か卒業制作のようなことをしたいね。」 彼女と交わした言葉を思い出し、その勇気を本を出版するということに、使ってみようと思ったのです。
そこからの1ヶ月は生み出すことの光と影に向き合う時間となりました。 言葉を生み出すときに伴う自分の冷淡さや高慢さや独りよがりな部分。これは思想の押しつけではないか。そんな自問自答を繰り返しながら自分の醜さに押しつぶされてしまいそうにもなって。だけどそんな醜さを全開にしてみたら、「それもあなただよ。」と抱きしめてくれる人たちがいて、ようやく私は大嫌いな自分の一部と手を繋ぐことができたのです。
なにかを表現しようと思うとき。生み出そうと思うとき。そこには必ず光だけじゃなく影が現れます。影は醜く、見にくいものだけど、ずっと自分のなかにあるもので、そんな影が表に現れるときというのは、影を光ごと抱きしめる“チャンス”なのではないかと思うのです。自分のなかの大好きな一部も大嫌いな一部も、どうしようもなくずっとある一部を全部、誰かに抱きしめてもらいながら、自分が自分を抱きしめてあげる。 そんな時間が人には必要なのではないかと思うのです。
言葉にしやすく言葉に傷つきやすく、だから言葉にしにくい時代だけれど。静台荘の喫茶室に併設した「水面の詩編集室」が誰かにとって、安心して言葉を紡ぐ場所になってくれたらと思っています。言葉というものがとても一部であることを分かり合い、まとう空気までを含んで大切にし合える人たちと、「誰もが息のしやすい世界」を願い合いながら。誰かの言葉が誰かの目に触れ、心に届く。そんな関係が静かに育まれてくれたら嬉しいなと思っています。
紙とペンと綴るものを用意してお待ちしております。
その本を本棚にそっと並べ、いつでも続きを綴りにいらしてください。
『水面に映る詩のように -はるのおと-』より抜粋
人はどこまでも
心と共に生きています。
明けない夜の星々も
晴れゆく空の光芒も
どんな景色も選べず映す
水面のように
人の心には様々が
映し出されてゆくものだから。
人間という生き物は
本当に大変な生き物だけど。
愛や喜びを分かち合い
不安や淋しさをさらけ出し、
変わってゆく様々を
生々しく表現してゆこう。
水面に映る詩のように。
水面の詩編集室
佐々木しづか